昭和四十八年三月一日
御理解第六十一節、
「神より金光大神に何時までも尽きぬおかげを、……」
何時までも尽きぬおかげを話にしておくのぞと、何時までも尽きぬおかげと、ゆうおかげの体認者にならなければならない、それを自分の信心で体験させてもらい、それを認める。
そこからです、その事を神心をもって、人に確信をもって話してゆけれる、人に本当の信心を、眞の信心とはこれだと、それを確信をもって伝えていく事が出来る、それが眞の道を踏んで行く事になるのであり、又神へのお礼であり、しかもそれが神になるのぞと仰せられる。
それが神になるのぞと、金光様の御信心はどこ迄も、いわゆる生神を目指しての道なのです、ですから私は、その根底になるものがです、何時までも尽きぬおかげをと仰る、尽きぬおかげ。
今日、私御祈念中に、「泥に報いる」とゆう事を頂いた。
土に報ずる、土に報いる、どうゆう事だろうかと思った、そして今日、この六十一節を頂いてみて、あらためてです、私はどこが大事とゆう事もないけれども、尽きぬおかげを話にしておくと仰る、この尽きぬおかげとゆうところの、重大な事に今日、改めて気が付いたような気がする。
お互いもひとつ、尽きぬおかげを頂かにゃいけません、
いつでしたか、朝の御祈念の時に、横八を頂いた(8)数字の八を横にしたのを頂いた。
私は無学で、何も意味が分かりませんから、丸いものをねじったら八の字になるですよねえ、はゝあこれは丸いとゆう事は、云うなら、自分のお腹の事じゃろうと、こう思うた。
だから、おなかがよじれるような事がある、例えば笑うてからでも、おなかがよじれると云いますけれどもね、腹の立つ時も、腹のよじれるように腹が立つ、と云うでしょう、そうゆうところをです例えばじっと辛抱させてもろうて
生神金光大神様と唱えながら、辛抱させて頂くような、おかげを頂いたらです、辛抱とゆう時は、そうゆう時に使うもの、だから、そうゆう辛抱させて頂いたら、おかげが受けられるとゆうようなお話をしたんです。
そしたらね秋永先生達夫婦が、こゝで一番にお届けいたしましょうが、それであの、「先生、今日の御理解の 先生は横八と云いなさいましたけれども、あれは数学の無限大とゆう記号ですよ」と、教えてもらいました。
私はそれを頂いた、と同時にです、私が云うた事もだから間違いが無い、おなかがよじれるような事に、例えば会ってもです、それをじっと、生神金光大神と、御神号を唱えながら、辛抱しぬかせて頂くような信心、これなら徳が受けられると説いたけれども、曽遊信心はです、だから 無限大のおかげにつながるとゆう事、限りの無い、……
いわゆる今日、私が皆さんに分かって頂きたいところはね、尽きぬおかげと、こう仰る、限りがないのです、しかも、どれだけ頂いても頂いても、これでおしまいとゆう事はない、もう限りなく頂けれるおかげです。
こうゆうおかげの体認です、成程こうゆういき方でいけば、こうゆうおかげが受けられると、段々、その信心が育っていく事を、自分で体験させてもらい、それを自分のものにさせて頂いたところからです、自身をもって、云うなら確信をもって、人に伝えていく事も出きるだろう、そして、そうゆう信心をさせるとゆう事がです、眞の信心だと、又、眞の道を踏んでいく事にもなるのだと、しかもそれが神になる道にまでつながるのであり。
昨日おとといでした、八幡の教会の若先生が、今度こゝで北九州青年教師の、信心実習会を開かせて頂きたいと、こう云うのです。それでその相談に見えられた。
それで私、お話を頂きまして、まあ裏でお茶でも差し上げながら信心のよもやま話をさせて頂いておりましたら、カバンの中から、おかげの泉を出されるのです。
「先生にお伺いしたい事が有るのです」と云う。
もう本当にこのおかげの泉を、時々ではあるけれども、読ませて頂いて、大変おかげを頂いておる。
この前の信心実習会の時も、先生のお話の中に、又、和賀心時代を創るとゆうあのお書物の中にも、まあ難解なところ、分からないところを色々とお尋ねになりました。
それは先生が四年半、ほうれん草のお知らせを頂かれたとゆうお話がね、もう分からないところが有る、それはやっぱり合楽の人でなからな分かるまいと、私は思いました。
ほうれん草さえ食べとりゃ力がつく、もう泥がついとろうが、赤いところがついとろうが、先生は四年半、それを頂きなさったとゆう事は、大体どうゆう事でしょうかと、
まあ、その事は皆さんが御承知ですから、起てくる一切の事を、黙って、、又は、合唱して受けるとゆう事。
私は今日、土に報ずるとゆう事はね、そうゆう事だと思うのですもう一つは、天地日月の心になる事肝要だと仰る、あの肝要とゆうところに先生は、えらい力を入れてお話になったが、あれはどうゆう意味でしょうか。
これも皆さんご承知の通りですね、もう一番肝要なところ、
天地日月の心になる事、天とはもう限りなく、与えて与えてやまない心、美しい心になるとゆう事、大地とは受けて受けて受けぬくとゆう事、日月の心とは愈実意丁寧、神信心とゆう事、もうだから、云うならそれに撤すればいゝのである。
金光様の信心はこゝのところが肝要だと、教祖も仰っておられるのですから、そこんところが、さっきも申します 腹がよじれるような事もあろう、受けていく上には、もうたまらんとゆう時もあろうけれどもです、それを頂いて、頂いて、頂きぬかせて頂いておると、実を云うたら、そんなに腹の立つ事でもなからなければ、腹がよじれる程の事ではない、むしろ それは喜んで合掌して受けなければならない訳が、段々分かってくる、体験から、……
云うならば、お百姓なさる方達が一反なら一反、一丁なら一丁の田圃を持っておられる、これはね、子供の代までも孫の代までも、いついつ迄もその田圃を耕し、肥やして行きさえすれば、いついつ迄も限りなく、おかげが受けられるのです。
私は土に報いるとゆう事は、そうゆう事だと思う、金光様の御信心を、本当のところを頂いて、例えばそれは頂いておっても、それを荒らしたり又は、枯らしたりすればいけません。
けれども年々その田圃に報いてゆく、肥やしを与えていく、愈地を肥やしてさえゆけば、その田圃からは毎年毎年、収穫が上がってくるのと同じ事なんです。
私は今日はね、尽きぬおかげとは、そうゆう事だと思う。
だから私共の信心の上で、それをそんなら、田圃を耕してゆくとか種をまいてゆくとか、肥料を施していくとゆう事は、そんなら、どうゆう事かと云うと、いわゆる天地日月の心になる事肝要であり、云うならば、成り行きを愈大事に尊ばせて頂いて、受けて受けて受けぬかせて頂くとゆう生き方をです、身につけるとゆう事。
それで、そうゆう信心を身につけてです、成程この信心さえ頂いておったら、尽きぬおかげが受けられるとゆう、確信を持ったところからです、私は人に伝えていく事も出きる、人に眞の信心をさせる事も出きる、そこから眞の道を踏んでゆく事は、そうゆう事だと教えられるのですから、又、それが神になるのぞと教えられるのですから、おかげを頂いてゆかねばならん、どうでも、だから、これだけは身につけなければならないとゆう事です。
それを、愈確認するためにも、愈、その成り行きを大事にすると云うか、勿論こゝの土に報いるとゆう事は、いわゆる御恩報志の報ですからね、報いてゆくとゆう事。
今年も、例えば一反から十俵のお米を頂く事が出きた、それに対して、そんなら報いていくとゆう事はです、いわゆる還元をしてゆくとゆう事だと思う、還元をしてゆく、還元とゆうのは返してゆく大地に返してゆく。
ある篤農の方の話を聞きますとね、田圃の中の収穫が得られる、その言わば、わらですか、その、わらだけを全部大地に返してゆけそれが大地に対するところの還元だと、ゆう事を聞いた事があります。収穫するばかりで肥料はやらん、おかげ頂くばっかりで、還元はしなかったら駄目です。
だから、それにふさわしい還元なんです、皆さんが例えて云うとお初穂をお供えなさったり、お賽銭を奉られたりなさるのは、言わば還元なんです、いわゆる、それは泥に報いておる訳です。
その泥に報いていくとゆう事の事訳を、私共が分からせてもろうて、いわゆる、その横の八の字の訳が分かり、愈成り行きを大事に尊ばせて頂くとゆう事、ですから そこに本気でひとつ撤してみる事、そこから、私は成程、これでいきさえすれば、尽きぬおかげが頂けるぞとゆう体験、認識をさせてもらう、この信心を育てゝさえゆけば良い、とゆう事になるのです。
それで金光様の信心とは、こうゆう信心ですと、人にも伝えて、確信をもって、…… やっぱ自分が体験して、自分が現しておってこそ初めて、確信をもって伝えてゆく事が出きるのですから、
只、お願いをしましてから、病気が治ったとゆうような意味合いの事ではなくてです、いわゆる、尽きぬおかげの頂けれる信心を、まず身につけるとゆう事、しかもこの信心を子供に伝えてゆき、孫に伝えてゆくとゆう事は、それはお百姓さんが、自分の田地田畑を子供に孫に伝えてゆく、そして稲の作り方やら、野菜の作り方を、教えてゆくようなものなんです。それが尽きぬおかげにつながってゆく。
私は、こゝの尽きぬおかげとゆう事を、今日はこゝに焦点を置いて聞いて頂いた、その後のところはです、愈わが心が神に向うていくとゆう、眞の道を歩いていくとゆう事もです、そこからハッキリ分かってくる。
そうゆう信心を頂いたら、成程、神心となりて、人にも伝えなければおられない事になってくるだろう、そうゆうおかげを頂いていきたいと思います。
尽きぬおかげを頂かせて頂く為には、土に報いる信心を、身につける事だとゆう事を、聞いて頂きましたですね。 どうぞ。